後部座席の憂欝

両親は自営業をしていた。

自営業と言ってもお客さんを待つような仕事ではなく、貨物ナンバーの車に工具をぎっしり積み込んで遠く出かけていくのだった。雪深い山まで行くことが多々あったと思う。                     今思えばどういう加減だろうか、そんな場所に行くのに小学校以前までその車の後部座席に横になって小さく丸まっていた。                                    暖かく、気持ちの良い時間の記憶はなく、寒く、暗い冬のさなかそこにいた記憶ばかりがある。とても、長く、長く、寂しい記憶があるばかりだ。                 とくに峠道は寂しい。 行きの明るい峠道は気にならないけど、帰りの暗い峠道はとても寂しく、心細い、 目の前に父と母がいるのに。                    峠道から時折、街の明かりや、どこか知らない山の斜面にポツンと光る家の明かりらしきものが見え隠れする。  その明かりを遠くみるその瞬間になにかほっとしたような安心するようなささやきがみえるときがある。 峠の暗い、街灯もないような道を走っているとそういった無責任な光でもわずかに心を癒してくれたような気がする。 あ、今、存在しているんだ、そして、我慢をすればあの光の中に自分も入りこむことができると憂欝をかき消すように望めたと思う。   電球のやわらかな光、暖かいストーヴの熱とやかんからでる蒸気と、今となっては珍しい赤い色のコタツから発する熱がなんて恋しいのだろうか。 当時はそこまで思うことはなかったにせよ、それらに包まれること願っていたに違いない。

今でも、夜の峠道は寂しく哀しい思いがよぎる。 今度は自分が運転席にいながらも。