走れ K-100

あ、やっとアクセスできた。 ほんと困ったものだ。。。

と、気持ちを切り替えて。。。

最近、車に話しかけている自分がたまにいる。                                    そろそろヤバいのか? うん、そうかも知れない。                              でも、そんな自分のルーツを今日、知った気がする。                             ヤフオクをみていたら6輪の寂れたバギーカーが売りに出ていた。                        もしや、と思い調べてみたらやはり、あのK-100の元になったものだった。                     K-100、いつごろのテレビ放映だったのか調べてみたら1973年であった。                そうか、自分が小学校4年かそのくらい。。 もっと小さい頃に観ていた気がするがそうでもなかった。 と、いうのもこれを観ていてなんどかポロポロと涙を流した記憶がある。 K-100は、元機関車という設定でゴムタイヤに換装された道路を走れる機関車だ。そのK-100は意志をもっており、言葉は発することはないのだが、怒ったり、悲しんだりすると警笛がボーとかピーとか鳴って感情を表現し、時に何かにビックリしたり、感情を露わにするような場面に出くわすと、運転手がいないのに勝手に走り出したりするのだ。北海道にいるおじいさんのもとへ行くために主人公とともに鹿児島から日本中を駆け回っていくのだ。(続編では沖縄に行ったみたいだけど。。)K-100は、道路を走るばかりでなく、階段もぐいぐい登り、そしてなんと水の上も可能というまったくもってスーパーなマシンであった。ただ、遅いというだけで・・・ 話は、どんな内容だったか詳しいことはまったく覚えていないが、なにかと涙する場面が多く、K-100のカナシイ警笛がピ~とか、ヒ~とか鳴ると思わず涙がこぼれ出てしまうのだった。                        K-100は、今のキャラクターのように流暢にしゃべったり、むりくり目と口をくっつけたりそんな情緒のないことはしないで、あくまでも機関車なのです。        ただ、警笛と行動で感情を表現する。それゆえ、見る人が悟らなければならない、感じねばならないので、余計に感情移入したりもするのだったのかもしれない。          そんなモノに対して、感情移入するようなテレビを子供の頃観ていたから、きっと今になって根付いた感情が加齢によって露呈してきたのだろうと、今日、知ったような、わかったようなそんな気がするだ。                             自分の車でどこかへいって無事帰ってきたり、沢山の荷物を積んだり、寒い日、暑い日、ヒーターの温風や冷風でホッとしたり、そんなとき、つい、ありがとう、などと言ってしまうのは、これだよきっと。(と、ヤバい自分を何かで肯定したくて。。)                                    ミニにもカルマンにも今の気持ちがあったらもっと大事にしてあげられたのかも知れないと、ちょっと後悔するくらいに。。。                           そうそう、さらにだ。 私は黄色い1つ目のフォグランプがなんとなく好きだ。      そのルーツもK-100だったのだ! K-100の目に相当するものは、K-100のヘッドランプ。 これを黒い布で覆ってしまうとK-100は感情を封じ込められただの機械になってしまうのだが、もしやと思ってK-100の画像を調べてみたらK-100は、黄色いヘッドランプがカタツムリの目のようひょこんと飛び出てひとつだけ付いていた。                                      これだ。。きっとそうだ、黄色いランプに魅了されてしまうのは、あのときテレビでみたK-100の黄色い目玉だったのだ。                             顔もない、喋りもしない乗り物にも感情移入できるというその設定は、今では逆に新しい手法かも知れないな。