大切なこと

私には2人の兄が”いた”。

上の兄の影響だと思うし、当時の子供なら極普通の流れで、僕はプラモデルを作るのが大好きだった。 小学校4年生の時はタミヤの1/48に凝ってジオラマなんかを造ったりもしていた。

これは、それよりももっと前の話だ。当時、なけなしの小遣いをはたいて50円やら100円やらのプラモデルをTERADA文房具店で買うことが度々あった。まだ小学校1、2年だろうか?そのあたりの記憶は薄い。。50円のプラモデルは大抵、どこかの国の戦闘機で、メッサーシュミットとかスピットファイヤーかなんかの簡単な構造のプラモデルだ。それでもそれを作ると、一人で空中戦闘ごっこをして何時間も夢中になっていたようなこともあったように記憶している。。。

あるとき、コタツにもぐる(赤外線の赤い光の電気コタツだ!)と、えっとその前にコタツの説明が必要ですね、私は、あの赤い光の暖かい、時には熱い、あの光がなんとなく好きでたびたびコタツの中に頭を、いや、体ごと突っ込んでいるときがあった、まるで猫がそうするようにね。

その赤い光の中に見つけてしまったのだ。あれを。

それは、革のようなもので作られた茶色と黒の縞々のラグビーボールの形をキーホルダー付のサイフであった。それは紛れもない下の兄のサイフであった。その中に数百円のお金が入っていた。

どっきん、ドッキン、心臓が強く脈打つ、ほとんど無意識に僕はその中から200円を抜き取っていた。

そしてそれを持ってTERADA文房具店へ直行した。そこは文房具店ではあったけれどもオモチャやらプラモデルやら、おおよそ子供が欲しいものはとり揃っていた。小学校の近くにあるんだもの、罪なお店だ。。

買ったのは、当時のレーシングカーだ。白いボディー、ミッドシップされたエンジンは8連だか10連だかのキャブのようなメッキパーツが光輝いている。とてつもなく大きなウイングが後ろに聳えている。今思えばトヨタ7かなにかかも知れない。

でも、僕はその200円のプラモデルを作ることができなかった。50円、100円のプラモデルと比べて、それはパーツが多くて僕には難しかったのだ。

僕はそれを上の兄に頼んで作ってもらったと記憶している。

出来上がったピカピカのそのレーシンガープラモデルを僕は、誇らしげに家族が集うテレビの上に飾ったのだ。(昨今、テレビの上が物置なんて話はなくなったね、熊の木彫りとか、王将とか、一番の飾りものはテレビの上と決まっていた、ビニールのレース調の下敷きを敷いてね)

家族で食事をしているとき、早速、母が、その異変に気が付いた、 〇〇〇!、そのプラモデルはいくらしたんだい? 僕はすかさず答えた 50円ってね。

 

”当時の”子供の自分にはまったくそれがウソだなんてバレるはずもなかろうと自分の尺度で計算しているから愚かなものだ、ひとつついたウソでもう犯した罪はまったく過去のものとなり、綺麗さっぱりその夜はぐっすり寝たのだろう。

翌日か、何日してかわからない、 〇〇〇来なさい! と呼び出された。

父と母がそこに座っていた。その雰囲気は初めてのことだった。

 そこに座りなさい。。

まさに波平に怒られるカツオくんのそれだった。

どのように、追求されたか覚えていない。下の兄のサイフから200円がなくなっていたこと、突然真新しい、明らかに50円ではないプラモデルと、僕の怪しい言葉がまさに点と点をいとも簡単に定規なんか使わないで手書きで簡単に繋がりを突き付けられたのであろう、そして大して長くはないいくつかの言葉のやり取りがなされ、あっと言う間の時間が経過するとともにまたどっきん、ドッキンと心臓が大きく鼓動し、僕の目から涙がボロボロとこぼれ落ちた。そしてゴメンなさいと、大きく、深く誤って、心底反省し、下の兄にも謝るように言われ、またもや涙をボロボロ流した。

もう、こんなことはするまい、まだ至極若い脳の表皮にハッキリと刻み込まれる。そうして学ぶのだ。これは悪いことだった、やってはイケないことだったのだと。

そうやって子供のうちに悪いことをしておいて良かったのだろうなと、よくない事件、事象をテレビ等でみて思うことが度々ある。きっと、あの人達は、子供の頃、僕よりもずっといい子だったのかも知れないと。。

そして、まったくもって繋がっているのかも知れないと思うもこともある。あのとき何故、コタツの中のすみっこに兄のサイフが落ちていたのか、50年以上前にそれはすでの教えられていたのだと。それが神様っていうのなら、運命のシークエンスだっていうのなら、きっとそうなのかなって。