読書の秋

読書の秋といわれてもそれを実感したことなど以前はなかったが最近は、雨が降ろうものなら、あの本を読もうか、あれにしようかと思いが尽きないのである。

それもこれも収集癖というのが祟ってしまって、文庫本が今は部屋にあふれかえり2000冊に達しようとしている。 読むのにはまったく追いついていない訳だが、文庫本自体が古本であれば100円程度で買える(安いもので50円)、そうやって古本屋を見つけては、特に思索するでもなく、その時にピンときたものを購入し、今や文庫本を買うことが趣味となってしまい、このような事態に陥っている。

でも、いざ、読もうと思うとそもそもあまり読書が好きではなかった(なのに!)ので

1冊読むのに大体30分もすると眠たくなってしまうのだ。

で、その本を閉じ、また別の本のページを開く。。。最初はなんて飽きっぽいのだろうと思ったのだ、テレビでアニメをみたら30分、ドラマで1時間が普通だろう?、そう思うと読もうと思った本が数冊中途半端になっていてもおかしくはないだろうと今は自分の愚かな点を擁護しているのである。いや、むしろこれが私には最適な読書方法のようであると最近になってやっとわかってきたような気がしているのです。

いくら読んでも実は、あまり記憶に残っていない。ただ感動したなとか、良かったなとかそれだけである。 これじゃなんのために本を読んでいるのだろうまったく無駄ではないかと最初は思ったが、本は自分のためだけに読んでいるのではなく、誰かのためにも読んでいるのだなと思うようにもなったのでこれでいいのですね。

 

 

 

2回目終了

先日、ハドソン川に不時着した旅客機の回想ドキュメントをテレビで放映していた。

川に無事不時着したものの、今度は水没の不安にさいまれながら、船の救助を待つという切実なものだった。

船は、なかなか来ず、遠く通かかった客船が気が付き、救助に向かおうとするも、船の乗客達は、もし、テロだったら(うそ)どうするのか?、誰も彼も自分のことで精いっぱいだった。しかし、船の船長は無理やり船の乗客を説得して救助に向かうのだった。

 

”目の前に助けを求めている人がいるのに、なにもしようとしないのか?

アメリカはそんな国になってしまったのか?”

 

と乗客を説得する。

911以降のアメリカ。特にニューヨーク市民にとっては航空機事故といえばそれは、吐き気がするほど痛ましくとても現実とは思えないほどの苦しい思いであったのだから無理もない。

翼の上や救命具にようやく身ゆだねている旅客機乗客のもとへようやく船が到着する。

船長ともう一人の乗組員は飛行機の乗客達を必死で引きあげる。

しかし、旅客機の乗客は待ちきれず、川に飛び込むものさえいる。

船長は思った、 これでは全員助けられない!

しかし、その瞬間、

あんなに反対していた船の乗客達が、川に飛び込んだ旅客機の乗客達に浮輪を投げ入れるなど救助活動を自主的にはじめてくれたのだ。

そうして旅客機の乗客達は飛行機が沈没する30分前に全員救助されたのであった。

 

船の上の人ができることなんて限られている。

浮き輪を投げ入れることなんて自体は大したことはないが、その大したことじゃないことが人の命を救う、それを待っている人がいる。

 

まだ溺れそうな人を横目に船上パーティーするなど、末恐ろしい、とんでもないことである。

 

 

 

 

 

おうちでお勉強しよう

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子供むけ英語のお勉強、カセットテープ。。。

ほう、そこからお勉強ですか?

はい、そうなんです。お子様みたいなもんですから。

と、これも違わなくはない。

 

実は、ホントの理由はこちら。

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わかります?

うた:キャロライン洋子っ書いてあります。

楽しみです。

 

 

気がつけば

近頃胃の調子が不調である。

悩ましいものが突然やってきたり、まさに寝耳に水というものばかりだ。

大体がどうでもいいことであるので数日間のガマンを強いるだけで済むのですがそれが度重なるとそれは、まるで一滴一滴がコップの中に溜まってやがて溢れ出すそれのようである。

そんなときでもビールを飲んでしまうことと、その悩ましい種がそうでもなく逆には忘れがたい思いでなってしまって、その一瞬だけはどうでもよくなってしまうところが愚かであり、また必要でもあるとしみじみ思うのである。

つい先日まで5月であったのに、もう6月が後半になっているではないか!

梅雨らしい梅雨がないものその原因のひとつだが、なにより自分自身の中でぐるぐるとめぐっていてこれと言って進歩していないのがその大たるものである。

もう、自分には新しいものは何も必要ないかと思われるほどです。

たぶん、思い出だけで生きていけそうな気がします。その方が幸せな気がします。

これってボケ。ですね、そうやって深いなかに押し入っていく気がします。

 

春よ~♪♪

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今年のセリは成長がスゴイ。まるで毒セリのような背丈である。

ホントはドクゼリ?と疑いたくなるほどである。

あまりにも生育がいいので、1本、1本ニオイを嗅ぎながら採取する。

葉が丸まっているといかにもセリなんだけど、これはヤマセリで、歯が尖っている。

そもそも全然違うのに、これをドクゼリと間違えて公開している人がいるくらいだ。

すでに私はこれを昨日食べているから間違いない。

(でも、疑わしきは食べない方がいいね)

香り付けのサンショウと、ほんとについでのユキノシタも摘んでおく。

ユキノシタは、なーんも味がしないが、天ぷらにはむいている。ちなみに、私は全部、おひたしでいただく。”草” という食感が堪らないのだ。

 

 

あの日あの頃

ふと、手にとった1冊は、林望さんの”僕の哀しい失敗”

深いものはない(今、思えば)ぼんやりとしたあの時、そうだったなと、思いだした。

車が主な遊び道具だったあの頃だ。

あの頃は退屈で退屈で仕方なかったのに、今思えばなんて贅沢な時期だったたろう。

なんにもすることがない、ただ車を運転するのだ。

 

何をするでもない、友人Nと赤城山へでも行ってみようか、などということになった。

たぶん、パルサーだったか?もちろんエアコンなんて装備されていない、格安で購入したろうそれは、ややサスペンションがヘタっていたが、そんなことは寧ろウエルカムなことで、車高を落とした車みたいでかえって楽しかったものだ。

しかし、天気はどんよりとしていたので、行きがてらなんともスッキリしないものがあってお互いちょっぴり口数も少ない。彼の車に装備されていたメタルボディーのサンヨー製カセットテープから何が流れていたかも覚えていない。

山道をくねくねするころ、登るにつれて雲の隙間から青空が顔を出し始め、やがて真っ青な空だけになってきたと同時に、俺たちの気持ちもすっかりクリアになってさっきまでのスッキリしない気持ちがまるでウソのように晴れやかになった。天気ってスゴイ。

何があるわけでもない、ナンパするとかそんなでもない。 ただ、ただ、雲達がすっかりいなくなった赤城山南面道路をくねくねと曲がって頂上でいっぷくして帰ってきてその日が終わったのだ。 

なにもない。意味もない。 しかし、今思うと極めて贅沢なひと時を過ごしたものだ。

またくもりに

前回の記述も曇の日だったな。

目下、休日になるとやることが沢山あって、どうに処置していいかわからなくなるほど。週2日の休みではどうにもならないほどに。

あれこれと色んなものを収集して終止が付かない状態なのである。

どれもこれも小さいこと、小さいものばかりにね。

そんな小さい物ばかり収集するのは、小さいものが好きだからに他ならない。たぶん、心も小さいのだろう。

小さいけれど、ちゃんとしているモノ。それをコンセプトに収集している。ま、そういう趣味なのだ。 なぜ小さいもの? それは一つに安い物が多い、そして沢山集めても場所をとらない。でも、中身はホンモノ。それが自分にはそそるらしい。

天気が良い日は良い日で自転車にでも乗って出かけたくなってしまうし、夜は夜で酒が恋しくなってしまう。そうなると休日の曇しかそれらを愛でるときがない。他愛もない収集品のホコリを払ったり、メンテナンスしたり、置き場所を替えてみたり、日々ため込んである文庫本を読んでみたりと曇になるとやることに事欠かないという状況でなんとも呑気な話です。

今朝も、六時に目が覚めて無性に読みたくなった文庫本を午前中に片づけた。

なぜか山口洋子さんの軽井沢夫人であった。

きっと、軽井沢の空気を吸いたくて満喫したくて仕方ないので本の世界にもぐり込んでこっそりしたかったのだと思う。

さてさて、あれやこれや。あと何年かかっても終わりそうもないことをひとつひとつ片づけるくもりのシュウマツなのであった。